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作業療法士

福澤 阿弾先生

作業療法士と企業家という
二つの肩書

学科 作業療法学科 昼間部 卒業生
専門分野 身体障碍分野
主な担当教科 身体障碍治療学
  • 現在、作業療法学科で非常勤講師として週に1度授業を受け持つ、作業療法学科昼間部卒業生の福澤阿弾先生のストーリーをお伝えするロングインタビュー。
    日リハの作業療法学科昼間部の1期生として入学し、卒業後は病院で作業療法士として勤務しながら、仲間たちと訪問看護ステーションを起業。経営者と作業療法士を両立しながら、キャリアを築かれてきました。
    そして、恩師からの誘いを受け、2014年から日リハの作業療法学科の教員として着任され、現在は別の訪問看護ステーションを営みながら非常勤講師として後進の育成に励まれています。一般的な作業療法士とは異なる角度からこの職を生業にしてきた福澤先生の生き方をお届けします。

    「超就職氷河期世代の文系大学生が理学療法士を目指す」

    Q. 福澤先生は、なんでも最初は理学療法士に惹かれていたと伺いました。
    そうなんです。高校を卒業後、私立大学の教育学部に入学したのですが、その頃に知人が脊髄損傷の大けがを負ってしまい、定期的に病院へお見舞いに行くようになりました。
    当時は私も病院にはあまり縁がない生活だったこともあり、「病院=医師と看護師しかいない」という程度のイメージでしたが、実際はそうではなく、放射線技師や臨床心理士など多くの職業の方が働いていることを知りました。さらには、知人がリハビリに行く様子を見学していて、そこで理学療法士の存在やその仕事を初めて認識しました。

    その知人は大変な想いで懸命にリハビリに励んでいたのですが、私は次第にそのリハビリを支える理学療法士の仕事ぶりに目が行くようになりました。
    その仕事内容に興味を持ち、その理学療法士の方の休憩中に色々と話を伺いました。当時はまだ90年代の半ばを過ぎた頃で、「リハビリ」という言葉も社会的にもそれほど知られていない時代です。理学療法士もスポーツクラブのトレーナーという認識が大半。ましてや、作業療法士という職業に至っては、誰も知らなかったと言ってもいいくらいではないでしょうか。


    Q. そこから福澤先生が進路を変えるきっかけはあったのでしょうか?世代的には超就職氷河期と呼ばれる、大学生にとっては非常に厳しい時代ですよね。
    大学は教育学部で、高校の社会科の免許で教職課程を取っていました。そうすると大学3年生になったら教育実習に行かなくてはいけませんが、その当時はまだ団塊の世代が教師として現役で、そもそも教員の枠もほとんどない時代。教育実習を経て、教員免許を取得しても、働ける学校がないという人も多かったのです。今の時代からはとても信じられないかもしれませんが。結果、資格を取得しても教員になれないならしょうがないと、教育実習にも行かず、だからといって「やりたくない仕事は続かないだろう」と就職活動もしませんでした。


    Q. 福澤先生が卒業された年の大学就職率は60.1%という低さです。多くの学生が「新卒無業者」として社会に放り出されたわけですが、福澤先生は卒業後の進路をどのように決められたのですか?
    入院している知人のお見舞いに行った経験が糧になりました。その病院のリハビリチームが皆さんとても仲が良くて、「こんな風に働けるのなら、仕事としてとてもやりがいがあるだろうな」と、大学4年次に進路を理学療法士に絞りました。友人たちが就職活動をしているなかで、私は専門学校の受験勉強に励んだわけですが、こっちは筋金入りの文系人間。高校時代は2年生から文系コースで理数は一切やってこなかったこともあり、誇張なく参考書の内容すらほとんど理解できなかったありさまです。

    そんな中でいくつかの学校を受験したのですが、結果はすべて不合格。今後について悩んでいたところ、八王子で病院をやっている知り合いの方と食事をする機会があり、将来的に理学療法士になりたいことを伝えたところ、「うちでリハビリ助手のバイトをしながら来年の試験に備えたらいいよ」と仰ってくださいました。二つ返事で快諾し、一年間の浪人生活がスタートしました。
  • 「理学療法士の道ではなく、作業療法士を選んだ理由」

    Q. アルバイトをしながらの浪人時代はどのような1年間だったのでしょうか?
    正直、大学時代の4年間で基礎的な学力が落ちてしまっていることは否めず、このままだと現役生には到底敵わないという想いもあり、リハビリ助手をしながら医療系の予備校に通うことにしました。苦手な数学にもゼロベースから取り組み、仕事と勉強を両立させる生活を送っていました。
    と同時に、その病院には理学療法士だけでなく作業療法士の方もいたので、色々と話を伺っていました。

    しかし、十分な対策を行って挑んだ2年目のトライも、決して上手くいったわけではありませんでした。志望校には軒並み不合格となってしまい、さらにもう一浪することは金銭的にも厳しいと思っていたときに、勤務先の理学療法士の先生が日リハの追加募集のことを教えてくださいました。
    ただ、その募集は理学療法士ではなく作業療法士でした。日リハはそれまで3年間夜間部だけ作業療法学科があり、昼間部へ拡大するべく2000年4月入学から1期生の募集をかけていたのです。

    その時に、助手をしていた病院の作業療法士の先生から「作業療法を目指してみれば?これからは絶対に作業療法の時代が来るよ!」と勧められたのです。その肯定の言葉はなぜだかとても説得力のあるもので、理学療法士から作業療法士へ志望を転向することにためらいはありませんでした。
    そして、無事に日リハに合格。私は晴れて日リハの作業療法学科昼間部1期生として入学したのです。


    Q. ちなみに福澤先生は、作業療法士のどういったところに希望を見出されたのですか?
    一般的に理学療法士の成り立ちは整形外科にあり、作業療法士は精神科であると言われています。とはいえ、作業療法士の勉強をはじめてその領域の幅の広さに驚きました。理学療法士は、リハビリを通して自分の体を自分でコントロールする能力を再構築していくことを目指しますが、作業療法士の場合は自分の身体を使ってやる作業のすべてが対象になります。“歩いてどこかにいこう、座って何かをしよう”など、「人が行うすべての行為は作業である」と言っても過言ではありません。それを知ったときには天啓が開いたような感覚でした。リハビリとして何をやってもいいという自由度が面白いと思いましたし、実際に受ける授業もとても興味深くて楽しかった。

    その一方で日リハに通いながら、これまでの病院での理学療法士のリハビリ助手のアルバイトも継続していました。理学療法士のことも現場で学びながら、作業療法士について授業で学ぶ日々でした。

    現在、理学療法士もADL(日常生活動作)の活動に目を向けはじめていますが、誰が何をやってもいいと思います。私自身、資格は作業療法士しか持っていませんが、歩行訓練もサポートします。専門エリアが作業療法士だと自由度が格段に広がるのは確かです。


    Q. 福澤先生は日リハを卒業後の進路はどうされたのでしょうか?
    2004年に卒業し、そのままリハビリ助手として働いていた八王子の病院に入職しました。ちょうどその時期は回復期の病棟が全国的に増え始めたタイミングで、その病院も私をはじめほとんどの職員が新入職というメンバーでした。限られた人数しか経験者がいないなかで、みんなでリハビリセンターを作り上げていく。私自身は入職前の5年間をリハビリ助手としてそこで勤務していたこともあり、年齢が少し上の先輩に対しても気にせず自由にやっていて、働きやすかったですね。
  • 「30歳、仲間とともに起業へ訪問看護ステーションを立ち上げる」

    Q. 慣れ親しんだ環境ということもあり、その病院で働き続けるという選択肢もあったと思うのですが、福澤先生はそれを選ばなかったそうですね。
    当時はまだ理学療法士しかいない病院が多かったです。かつて八王子の病院で一緒に働いていた理学療法士の先生が立川の病院で勤務していて、「うちは理学療法士しかいなくて、来年度から作業療法科もつくりたいからぜひ来てほしい」という誘いを受けたのです。尊敬していた先生からの誘いでもあったので、行く決断をして、10月には病院に退職願を提出し、受理されました。
    そこから一気に話が変わっていきます。

    2月頃だったでしょうか、「次年度が診療報酬の改定がある年で、転職予定の病院で、「これから新しくチームを作るのはやめよう」という結論になってしまいました。つまり、私を受け入れてくれる場所がなくなってしまったのです。
    八王子の病院にはもうとっくに辞表を出しているので、続けることはできません。行くことも退くこともできない状況に陥ったときに手を差し伸べてくれたのは、私を誘ってくれた先輩でした。「こんなことになってしまい、福澤に申し訳が立たないから、俺も今の病院を辞める」と言い出したのです。


    Q. それはすごいですね! 義理堅い先輩だったわけですね。
    最初は先輩と二人で、回復期の立ち上げをやろうと色々当てを探しに行ったのですが、エリア面で良いところがなくて。そうこうするうちに、先輩の右腕的存在だった人も「科長がいなくなるなら俺も辞めます」と退職し、だったらこの三人だけで自分たちでその場所を作ってしまおうという結論に達しました。
    当時の自分たちにできることといえば、デイサービスか訪問看護ステーションでした。デイサービスはどうしても初期投資が必要になるのと、看護師の知り合いもいたこともあり、訪問看護ステーションを起業することに決めました。

    とはいえ、すぐに実現できるわけではなかったので、三人でアルバイトをしながら準備をしていくことに。アルバイト先はみんなそれぞれでしたが、私は三箇所をかけもちでやっていました。資金を稼ぐ必要もあるので実入りのいい場所が二つと、もう一つが病院に付属している訪問看護ステーション。そこでは相当お世話になりました。もちろん、自分たちが訪問看護ステーションを立ち上げる予定であることも伝えていましたし、私たちが予定していたエリアとは異なることもあって、勤務する看護師と仲良くなり、書類など見せていただいて参考にしました。


    Q. 時代もあったのかもしれませんが、惜しみなく見せてくれたというのも大盤振る舞いですね。
    そうですね、必要なものなども全部教えていただきました。結果的に準備期間に7ヶ月を費やし、12月に立川で訪問看護ステーションを立ち上げました。退職したその年のうちにオープンすることができてほっとしました。作業療法士の資格を取得してから数えること4年、私自身の年齢は30歳でした。
    確かに30歳で起業するというのは早いように感じるかもしれませんが、最初からそこを目標として入職したわけではなく、あくまでその道しかなかったという言い方もできます。もともと起業ありきで資格を取得したのなら、そういうマインドで働きながら人脈を作っていくなど仕事外の活動も行うのでしょうけれど、私の原点はお見舞いに行った先のリハビリチームを見て「あんな風に働けたらいいなあ」だったわけですから。流れに身を任せていたらその選択肢しかなくなり、勢いで会社をつくることになったという展開。

    作業療法士としてのキャリアは積んできましたが、経営に携わるのも初めてのこと。時代的にも理学療法士や作業療法士が起業をするという流れができつつあったタイミングでしたが、色々な方に助けていただきました。

    八王子の病院時代に仲良くなった医療機器メーカーの社長から税理士の方を紹介していただいて、その先生が毎月自分たちの会社の数字を見ながら「ここはもうちょっとこうした方がいい」といったアドバイスを受け、それを実践しながら経験し、学んでいきました。
    でも、最初の頃は毎月給料日が近づいてくると「大丈夫かな……」とドキドキしていましたし、金策に走ったり、ランニングコストの高さに驚いたり、落ち着かない日々でしたね(笑)。


    Q. 実際、作業療法士と経営者の両立はどうでしたか?
    訪問セラピストとして朝から夕方まで働き、会社に戻ってからは経理をはじめ経営側の仕事をこなしていました。結果的には、日付が変わる頃にならないと帰宅できない毎日でした。自分の体力も過酷でしたが、もっと大変だったのは妻に迷惑をかけたこと。
    そもそも病院を退職する手前で結婚したのですが、転職先がなくなるだけでも衝撃なのに、それがいきなり起業すると言い出し、挙句の果てに準備のためにバイトに明け暮れるわけですから、彼女からすれば信じられなかったでしょうね(苦笑)。

    もちろん起業は反対されたので、ファミレスに先輩に来てもらって二人で一緒に説得です。「訪問看護ステーションをオープンさせたら半年で必ず結果を出すから!」という言葉に不承不承という感じで納得してもらいました。
    それでもなんとか半年後には黒字転換できて、そこからはずっと安定して右肩上がりの業績を残すことができました。近隣に同業種が少なかったことも功を奏したのだと思います。
  • 「経営者から教職への転身母校で生徒たちと向き合う」

    Q. そこから福澤先生は、ゼロから立ち上げた会社から退き、日リハの講師として母校に戻ることになります。こちらはどのような経緯があったのでしょうか?
    トータル8年ほどその訪問看護ステーションを経営していました。その月日の中で別事業としてデイサービスもはじめていたのですが、そうすると学生さんを実習で迎えることができるので、当時の学科長から「ぜひうちの学生をお願いします」という依頼があり、日リハとのつながりが再びはじまりました。
    そうこうするうちに、家庭の事情によって会社を退職することになりました。その報告と、仕事先の紹介でもしてもらえないかと思い、日リハの学科長に電話をしたところ会って話をすることに。

    学科長から「今はこういうことになっているけれど、将来はどうするつもりなの?」と訊かれたので、正直に「いずれはまた自分で会社をつくりたいと思っています。資金が貯まるまでどれくらいかかるかはわかりませんが」と打ち明けました。
    それを聞いた学科長から、「期間限定でどこかで働くくらいならば、日リハで教員として働くというのはどうだろう? そうすれば、他の理学療法士や作業療法士の先生との交流もできて、実習先のセラピストの先生たちとのネットワークも広がる。何よりも患者さんとの接点がないことは福澤くんにとってもメリットがあると思うよ」という提案をいただいてしまいました。

    確かに学科長の仰る通りで、転職してもいつか職場を離れてしまうということは、セラピストとしては“患者さんを見放す”という意味合いもあります。転職を決めたからといって、徐々に担当を減らしていきフェイドアウトができるわけではありません。退職する日もフルで患者さんを担当するのが当たり前の世界です。そして次の日にはいなくなっている。患者さんからすれば自分をずっと看てくれていた人が急にいなくなっているわけですから、その喪失感は計り知れません。ですから、そんな申し入れをいただいたのなら、断れるわけがないのです。いまだに当時の学科長には頭が上がりませんし、何かを依頼されたら二つ返事でイエスと答えています。


    Q. 教える側に立った福澤先生ですが、実際に指導面で葛藤などはあったのでしょうか?
    それは当然あります。作業療法士の資格を取りたいというモチベーションのスタートラインが、当時学生だった自分たちとは大きく異なるのは否めません。
    当時の私たちは、1期生ということもありますが昼間部であっても、年齢層は現在の夜間部のように幅が広く、モチベーションが非常に高かった。私も大学卒業後に一浪を経ての入学になったわけですし、もう後はないという想いばかり。私の場合は現場に出る頃には、大学の同級生は社会人を5年経験していることになるわけですからね。
    教師として戻って来たのは、私の入学した年から数えて10年後でしたが、高校卒業してすぐ入学する学生が多く、年齢層や考え方に当時の私たちとの違いを感じていました。


    Q. 福澤先生はそういう学生とはどのように向き合ってこられたのですか?
    ひたすら全員と個人面談を行っていました。担任という立場ですが、社会を経験して、経営者も経験し、医療従事者として10年働いてきた身として彼ら彼女らと向き合いました。
    厳しい言葉も投げかけましたが、ちゃんと向き合ってしっかり話をすると、段々と変わってくれました。他にも、国家試験のための勉強でさんざん苦しむうちにだんだん自覚が芽生えてきたり、あるいは長期実習を一つずつクリアしていくなかで医療従事者としての素質が備わってきたり、実習先で人生を変える先生との出会いがあったりと、様々なきっかけで成長していきます。

    現在は、私としても「気づくポイントはみんな一緒ではなく、それぞれタイミングが異なって当たり前」ということも理解できているので、気づくためのきっかけは与えたいなと思っていて、その都度声はかけています。目の前で成長してくれる子がいると教員はすごくやりがいがあるし、楽しい仕事ですね。
  • 「そして再び経営者の道へ経営者と教育者の両立」

    Q. 当初はゼロから会社を立ち上げるという思いがあった福澤先生ですが、そうではなく経営難に陥っていた訪問看護ステーションを引き継ぐ形で、再び経営者に戻られたそうですね。
    それもまた流れに身を任せた結果ですが、訪問看護ステーションを閉鎖しようと考えているという社長を友人から紹介されました。「できるなら閉鎖ではなくそれを引き継いでもらえないか?」という相談を受けたのですが、日リハで働きはじめてまだ日が浅かったこともあり、最初はお断りしました。選択肢としては、他の事業者に吸収されるか、完全に閉鎖されるか、私が引き継ぐかの三択。半年くらい熟考を重ねました。

    熟考した理由は、そのステーションはいい職員さんや看護師さんたちばかりだったから。こんなにも利用者思いのスタッフが多いのは宝だな、と。特に訪問看護ステーションを長くやっているとわかりますが、看護師で任せられるくらいの人にはなかなか巡り合えるものではありません。

    経営面での実情を見せてもらうと、確かに経営的には相当厳しい部類に入りましたので、現社長が見切りをつける段階に入ったのも仕方ないと感じました。ただ、多少は時間がかかるかもしれませんが、数字的にうまい方向にもっていけさえすれば、この優秀なスタッフたちがいるのなら、将来的にはものすごくいいチャンスになると感じました。でも、日リハの手前、やっぱりすぐにその話を引き受けることはできませんでした。

    ただ、現社長は介護のことはまったくわからない方だったので、常駐しているわけではなく、週に一度来所しているだけとのことでした。なので、日リハで週一回の研修日を利用してその訪問看護ステーションを訪れ、そのタイミングで足りないところを変革していけばやがて好転していくかもしれないと考えました。
    そしてまずは、スタッフたちと話をしました。特殊な状況下ではあるけれど、私が引き継いでも問題ないだろうか?と。やはり閉所よりは継続された方がいいので、皆さん同意してくださって、特殊な二足のわらじ生活がはじまりました。


    Q. 教育者と経営者。その二つを全力投球で両立させるのは至難の業であることが想像できます。
    私を拾ってくださった学科長の手前、少なくとも2年は日リハをメインにして働きながら、会社の方もしっかりとやっていました。そして、「日リハを退職し、本業一本に絞ります」とお伝えしたところ、非常勤講師として日リハにも残してもらえることになりました。今は会社に週4日勤務し、週1日を日リハで教えています。
  • 「作業療法士の仕事は人の人生のすべてが治療範囲」

    Q. これまで福澤先生の半生を聞いてまいりました。知れば知るほど、作業療法士の領域を拡張されてこられたのだと感じてしまいます。「作業療法士ってこういう関わり方もあるんだ」と知ってくださった読者の皆さんに、あらためて作業療法士の魅力についてお話いただけますか?
    作業療法士の魅力は「なんでもできる」ということに尽きます。最初にもお伝えしましたが、とにかく守備範囲がものすごく広い。余暇も含めて生活全般におけるすべての作業が治療の範囲に入ります。

    一般的に作業療法は、身体障害領域、精神障害領域、発達障害領域、老年期障害領域という4つの領域にわかれていますが、それぞれに特化する必要はありません。それらの枠組みは越えられないわけではないのです。

    人の人生のすべてが治療の範囲に入るということは、そのすべてと向き合って良くするための手助けができるということ。自分の発想でここまで何でもできる仕事というのは他にはありません。だからこそ、一人ひとりにあわせたオーダーメイドのような治療プログラムを作り上げることができますし、そこは作業療法士の専門性の一番の魅力です。一方で、だからこそ「患者さんの人生を背負う責任を忘れないこと」はしっかりと学生たちに伝えていきたいと思います。